価値観が多様化する社会の期待に応える 行動科学とデジタルの融合によるビジネス変革
2022/03/10
2022/03/10
ナッジ理論の台頭とデジタルによる「行動変容」の「介入」の急速な進化
行動科学とは人間の行動原理を研究する学術分野ですが、ビジネス領域における応用の一つとして、ある目的の実現のため、ターゲットとなる人々に対して働きかけ(「介入」)を行って「行動変容」を促すという取り組みに活用されています。
企業の「介入」による「行動変容」の実践例として、Googleが自社の社員食堂で行っている社員の健康増進を促す取り組みがよく知られています。Googleでは福利厚生の一環として、すべての社員が無料で利用できる社員食堂を提供しています。社員の健康不良や肥満が業務のパフォーマンスに悪影響を与えていることに気づいた同社では、この社員食堂を活用して実証実験を繰り返した結果、健康の観点で社員の食事選択の改善に成功しました。例えば、野菜料理のそばに、その野菜の健康効果についての豆知識をカラフルな写真とともに提示することで、健康効果の高い野菜料理を試食する社員が74%も増え、一人当たりの摂取量も64%増えました。
こうした取り組みの裏付けとなっているのが「ナッジ理論」です。ナッジ理論は、「ナッジ(nudge)=そっと背中を押す」という言葉が示す通り、人々の行動を強要するのではなく、自発的により良い選択をするように働きかけるという概念です。この考え方は過去数十年の間、行動科学のテーマの1つとして研究されており、2017年に米国の経済学者、リチャード・セイラーのノーベル経済学賞受賞により広く知られるようになりました。
行動科学の応用が注目されている背景には、ナッジ理論の台頭前より、心理学者のダニエル・カーネマンが2002年にノーベル経済学賞を受賞したことで進化していた行動経済学や、人間の意思決定過程を神経科学的に探求する学問の発展、近年において行動科学の研究を加速させるテクノロジーの進化などが挙げられます。特に、デジタル化によって、行動科学に基づく行動変容への介入手法が飛躍的に進化しています。
デジタルによる行動変容への介入手法の進化には大きく分けて、サービス(アウトプット)としての「①個別最適化の実現、②介入手段の多様化、③コミュニケーションの量・質の向上」と、基盤となる技術(インプット)としての「④透明性・正確性の向上、⑤最新化の容易さ・頻度の向上」の5つが挙げられます。
(図表1:https://bizzine.jp/article/detail/4695より引用)
例えば、デジタルテクノロジーの進化により、地理的に離れた人同士がコミュニティをつくれるようになり、人々の交流や意思表示の手軽さ、頻度、双方向性が向上しました。並行して、行動変容のターゲットコミュニティは拡張され、介入にまつわるコミュニケーションの量と質の双方を深化させています。
さらに行動変容を促すメッセージングについても、対象者に応じた「表現・タイミング・頻度」のアレンジのような詳細な個別化や最適化が可能になり、介入メッセージによる行動変容の実現がより容易な環境になっています。
多様化する人々の価値観に応えるために求められる全方位的な経営
行動科学に基づくアプローチの必要性が増している理由には、社会や人々の価値観・ニーズの多様化があります。行動変容を促すターゲットは、「消費者」「従業員」「市民」という3つのグループに分けることができます。現在、この3つのグループのそれぞれで、どのように価値観が多様化しているのでしょうか。
まず消費者について、多くの消費者はこれまで、主に商品の価格や品質を判断基準として購買の意思決定を行ってきました。しかし現在、製品・サービスの地球環境や人の健康への配慮、また提供元企業のパーパスや社会的信頼といった新たな価値観をより重視するようになっています。
また企業の従業員も、自らが労働力を提供する組織の選択基準は報酬だけでなく、ワークライフバランスや従業員に対する敬意、自己実現の可能性などを踏まえた総合的な判断も重要になってきています。
そして、市民の要望も多様化しています。景気対策や雇用問題を重視する国民は減っており、防衛・安全保障、防災、交通安全対策を重視している国民が増加していることがわかっています。
このように、「消費者」「従業員」「市民」が自らの行動を決定する上での考え方や価値観は多様化の一途をたどり、企業や行政がターゲットの行動変容を実現するためには、多くのステークホルダーへの配慮を踏まえた全方位的な経営が求められています。
(図表2)
全方位的な経営を実践するためのフレームワークに「360°Value Meter」があります(図表3)。「 360°Value Meter」では、全方位的な経営に欠かすことのできない価値基準として、大きく6つを掲げています。「Financial」は、これまでも重視されてきた売上高や利益、資本、キャッシュフローなどを指しています。Financial以外の「Experience=顧客/従業員/サプライヤーの満足度」、「Sustainability=持続可能性、環境への配慮、コンプライアンス」、「Inclusion & Diversity=性別、国籍、人種などの多様性の尊重」といった項目は、利益の獲得を最優先するこれまでの企業経営においてはあまり重視されてこなかった価値基準です。しかし、社会の人々からの多様なニーズに応えることのできる豊かな未来の実現が求められ、投資家からの評価による企業価値の向上にもつながる中で全方位的な達成が求められます。
これらのすべての指標を考慮した経営の実践には、消費者・従業員・市民の行動原理を理解し行動変容を促す、という行動科学に基づくアプローチもその一助となるのです。
(図表3)
先進事例に見る行動科学に基づいた変革モデル
グローバルの先進事例を分析すると、企業が「行動変容」を促す行動科学を基軸としたアプローチを自社の経営に採り入れて事業変革・成果につなげていくためには、下記の5つのステップが重要であることがわかります。
以下では、すでにこのアプローチを用いて大きな成果を上げているいくつか企業の先進的な取り組みを紹介します。
(図表4)
ウォルマート(米国):行動科学の専門家チームによる分析を通じて、来店客の購買意欲を向上
米国の巨大スーパーマーケットチェーンであるウォルマートは、社内に行動科学の専門家チームを設置し、科学的方法に基づく仮説検証、実証実験、統計手法による分析の繰り返しから得られた結果を事業開発に反映していく、というサイクルを確立しています。例えば、顧客にリピーターになってもらうための施策と成果の因果関係や、どのような商品棚の配置や店舗デザインが来店客の購買意欲を高めるかなどの研究、また、新たな取り組みに対する、市場展開される前の「AB テスト」や「ランダム化比較試験」といった導入効果検証の実施が挙げられます。
ここで注目すべきは、同社では行動科学の専門家による仮説検証において、効果がなければ経営の施策に採り入れてはならないというところまで徹底している点です。これらの取り組みは、全社的なビジネス変革を推進するためのアプローチとして行動科学的手法を採り入れた先進的な事例です。
(図表5)
ヴァージンアトランティック航空(英国):300名以上のパイロットの行動変容を通じて、燃料消費とCO2排出量を削減
英国の航空大手であるヴァージンアトランティック航空では、パイロットに燃料消費を減らすという行動を促すために様々な実験を行い、離着陸及び飛行中の燃料効率の大幅な改善およびコストとCO2 排出量の削減に成功しました。具体的には、パイロットの「効率的な運行や操縦方法を実践する」という意識向上を促す最適な「介入」方法を見出すため、ナッジ理論をベースにパイロットが意思決定を行う環境を微妙に変化させながらテストと検証を繰り返しました。用いられたデータは、約330名のパイロットの4万回のフライトという膨大な量になります。
また、COVID-19によるパンデミックで大きな打撃を受けた同社は、事業再建に向けた取り組みの中で科学的な手法を積極的に採り入れることで、従業員のコスト意識の向上にとどまらず、サステナビリティの実現・地球温暖化防止という社会的課題の側面においても大きな成果を上げています。この取り組みは、従業員のエクスペリエンスの満足度を高めることでモチベーションを維持・向上しながらビジネス変革を進めている点で、行動科学の応用が実現できる可能性を示す事例だと言えます。
(図表6)
行動科学とデジタル技術の融合によるさらなる発展の兆し
現在、日本においては、行動科学の知見と科学的方法を応用した全社的なビジネス変革に着手している企業は多くありません。しかし大手企業を中心に、行動変容を促す介入、特にデジタルテクノロジーやAIの技術を融合した形での取り組みにおいて、活性化の兆しが見え始めています。
たとえば NTTでの「バイオデジタルツイン」による個別化・最適化された行動変容を伴う医療支援の提供や、トヨタ自動車における「MR(Mixed Reality)デバイス」を用いた自動車整備作業の技術伝承などが挙げられます。
労働者の怪我防止・減少を目的に、製造および流通センターで働いている労働者にKinetic社開発のReflexウェアラブルデバイスを装着し、正しい姿勢や動きを誘導。不適切な持ち上げや負担になる姿勢を減らし、緊張と捻挫による負傷の削減を図っている
身体の異常の早期発見による予防や治療を目的に、生体情報やそれらに影響を与える行動情報、臓器機能のデジタルマッピング、心身状態の予測シミュレーションなどをサイバー空間で精緻に写像。より個別化/最適化された行動変容を伴う医療支援を提供している
自動車の点検・整備作業の効率化とトレーニングを目的に、Microsoft社開発のMRデバイスHololensを活用、配線図、艤装図、部品名称などを3Dで実際の車に合わせて表示。従業員の効率的で正確な作業遂行や体験的な学習をサポートする
将来的な見込みとして、学術研究などにより個人の意思決定を支える神経基盤や脳メカニズムがより詳しく解明されるにともない、行動変容の介入への新たな方法論が見いだされることが想定されます。また、センシング(デジタル)技術の進化で、言動の観測では把握できないレベルでの人間の無意識、心理・身体状況が容易に観測できるようになると、行動変容の介入のあり方も変貌を遂げると予想されています。実際、VRで視覚情報を操作し食欲をコントロール、心拍変動、眼球運動、脳波などの生理指標を活用したドライバーの安全運転支援や介入、集中力やパフォーマンス向上、ビジネス対話シーンにおいて価値創出に繋がる対話の醸成支援など、中には既に実用化にむけて研究開発が進んでいるものもあります。
常に進化を遂げている行動科学は、デジタル/センシングテクノロジーやAI技術との融合により、これまで考えられなかったような効果的でより斬新な行動変容への介入が実現可能になり、新たな可能性として期待が寄せられています。
人間の感覚間相互作用を利用し、VR技術との組み合わせでバーチャルな食体験を実現。例えば擬似的に食べ物の大きさを変え、満腹感を変えず食べる量を減らさせるという研究がある。感覚間相互作は感覚や知覚の変化だけでなく、意思決定プロセスに深い関わりのある情動にも変化をもたらすと言われており、これらを応用したクロスモーダル人間拡張技術の研究が前進している
運転ミスが起因となる交通事故の事前回避を目的に、センサー・AI技術を活用した運転者一人ひとりに寄り添う運転支援技術を開発。この取り組は、脳内における知覚プロセスやリスク認識といった「人を理解する研究」を基軸としている。また、この技術を他の交通者と通信技術でつなげたネットワークの構想もある
ビジネスでの対話のシーンにおいて、対話者が共感 (ラポール) 状態に至り、潜在的な意識を引き出し新しい価値の創出につなげることの重要性を踏まえ、バイオセンシング/AI技術を活用し話者間の共感状態を可視化、即時フィードバックによる対話の質上げの取り組みを実施。共感状態では話者間の脳波など生体情報・身体動作が同期するという実証実験をベースとしている
行動科学を自社の変革テーマに組み込み、組織を再構築する
行動科学を応用し、多様な価値観に全方位的に対応していくためには、戦略策定の時点で行動科学の知見を取り入れ、目的を持ち、科学的アプローチによるデータの収集、分析、サービスのアルゴリズム開発、オペレーションへの落とし込み、そして人財の育成・ケイパビリティの拡充などの様々な要素が肝要です。行動科学の研究成果を最大限に生かすためには、これらの個々の要素を有機的に連携させ、全社的に取り組むことが求められます。
(図表7)
透明性と倫理的な活用の重要性
行動科学とデジタルを融合による行動変容に向けた取り組みは今後さらなる発展が見込まれますが、活用には透明性と倫理性を常に意識することが重要となります。例えば、センシング技術でセンシティブデータなどを収集する場合、知らないうちに心の内面が勝手に読みとられるという誇張された印象や、行動を操られているかもしれないという不安や否定的な感情の増幅の可能性もあり、対象者には透明性を確保する必要があります。行動変容に向けた取り組みにおいては、企業の利益のみを追求した対象者の行動の操作ではなく、倫理的なビジネスの経営理念のもと実践することが大切になります。